昭和五十四年十二月一日 朝の御理解
御理解第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
祈願詞の中に「生かされて生きてあり、その道理を知らずして迷い苦しむ人々の難儀を助け給はんと」というところがありますよね。もうお道の信心をさせて頂く者は、この事を知らん者はおりませんし、またこれを唱えない者もありません。繰り返し生かされて生きておるんだ、と。自分が生きておるんじゃない、生かされて生きておるんだ、と。その道理ですね、ことわけ、を知らずして迷い苦しんでおる、とこう言っておられます、迷い苦しむ。
その難儀を助け給わんとして天地金乃神様は金光大神を差し向けられたわけであります。ただ金光教の信心を頂くものが生かされて生きてある、という事を知らない者は、まずなかろうとこう思う、ね。生かされて生きてるんだ、と、ね。ところがここに迷いがあり悩みがあり苦しみがある、という事はどういう事だろう、ね。その悩みやら苦しみやらを取り除かせて頂く為に、私共が信心わかる。どういう道理をわかるか、と言うと、我、生かされてありという事なんです。
考えて見れば見る程わかるです、頭でわかる、ね。成程自分が生きておるとじゃない、神様のおかげで生きておるんだ、生かされて生きておるんだ、という事がわかる。わかったなら、そこにもう迷いも苦しみもなかりそうなけれども、あるという事実はどうした事であろうか、というところに一つ着眼、しなければいけません。信心は、私は着眼だと思う、ね。
で、そこから、いうならば研修がなされ実験がなされ、そして実証していって成程生かされていきておるんだな、という事がわかるんです。『今朝の御祈念中に「柿の種を少しばっかり削ったところ」を頂いたんです。もうあれはいつでしたかね、一年にもなりましょうか。柿の種を真っ二つに割ったら、もうすでに芽、柿の芽があるんだ。
二つに割ると、ちゃんと、こ、恵んでおるんだ、ね。如何に恵んでおっても、そのままではどうにも出来ないけれども、いうならば土に、の、おかげを頂きますと、確かに柿の芽が出るんです。人間もやはり神の氏子として、ね。ちゃんと生まれた時に、すでに神の芽というものが、神の芽ざしというものがある、ね。それに気がつき、という事なんです、ね。
生かされて生きてあり、という事がわかる事も、もういっちょ向こうの根本的な、ね。我、神の子である、という自覚という事を申しますが、それを私共が、いうならば、ね。自分でそれを認める、というか、あゝそうだとわかる、という事。柿の種だけではない、ね。』今の祈願詞の、その前に、天地の間のもの皆は、とありますね。天地の間のもの皆は、という事は人間だけではありません。もう、ね、あらゆる動物、植物に至るまでが天地金乃神様の御恩恵によくしなければ枯死する、という事。
枯死、いうならばあってないようなものだ、という事、ましてや人間氏子は、今日の御理解にありますように、屑の子ほど可愛い、という神情、ね。神の情をもって私共の上の事を見守って下さってあるのですけれども、ね。そのことわけがわからない。その道理がわからなかったら、それこそあってないものと同じことです、ね。いかに神様が屑の子ほど可愛い、という念に立っての神様であり氏子であってもです。
それを私共があっ成程だ、と合点する。本当に自分のような屑の子、神様に御心配ばかりかけておる自分。本当に相済まん、という心も生まれてくるわけです、ね。如何に道理の上でです。その親が子を思う情念の、それこそ何千倍とも何万倍ともわからない神情をもって、私共の上の事を、ね、思うておって下さっても、ね。ま、そこの根本のところがわからなければ、ね、わからない。
いうなら柿の種を少しばっかり削っただけじゃわからん、ね。少し削っただけじゃ白かつが出るだけでしょう、ね。それを真っ二つに割って見て、初めて成程、もうすでに神の芽がここに、柿の種の芽、というものが、もうあるんだ、というように。私共の心の中に、なるほど生神の芽が私共にも、それぞれにそこからの信心です。生かされて生きてありをいくら何千遍言うたって、んなら迷いが取るれんじゃないか、苦しみが取れんじゃないか、ね。
だからそのもう一つ生かされて生きておる、もう一つ前のところをです、ね、わかる、という事は私共が、ね、我、神の子である、というその自覚を、実際柿の種を割ってみたか、の、ようにはっきりわかるところから、これはこの芽を、いよいよ育てなければいけないよ。人間は土から出でて土に還る、と言われるが、その道中とてもやはりその土に帰っていく信心がなされなければ、たとえ生神の芽を心の中に頂いておっても、ね。
生神としての働きも現わす事も出来ないし、また一生を、ね。ただ飲んで食うて、ま、ちょい、という事だけに終わってしまう。これではあまりにも悲しい事である、ね。その悲しい事を、天地金乃神様の悲しみとなさり生神金光大神を、この世に差し向けて下さり、そして、そのことわけをわからせて実験実証をさせながら、我、生神の自覚、に立つ。我、日々が生神への精進という事になってくるんです。ね。
おかげば頂かなんけん拝みよります、というところからね。そういうところから今日、私が皆さんに申しますところに、そういうところに立脚点というものが、ね、置かれなければね、駄目です。そこに立脚してからの信心でなからなければ折角金光大神をこの世に差し向けて下さった天地金乃神様の、ね、願いも、それこそあっけないような事になってしまう、ね。
機能は月末の御礼信話会でした。皆さんそれぞれに発表を聞かせて頂いて、段々本当に深められて行っておられるのを、ま、聞かせて頂きましたが、いよいよ十一月も終わり十二月も今年最後の締め括りとしての信心を願われてのお話が多かった。中に桜井先生が発表しておられましたが、昨日毎日福岡から、あのようにして日参がなされます。
しかも午前中は御神米の調整の御用を頂いて、いつも十二時、一時の御祈念を頂いて帰られる。帰りがけに、ま、時々でしょうけれども、何か本屋さんがあるから本屋さんに立ち寄られた。してそこには習字の本があった、手習いの本が、で、それを何気なしにこうやって開かせて頂いたら、そこに草書行書楷書の字が書いてあって、その一番初めに目に止まったのはね。天は黒なり地は黄なりとあった、ね。
私は、それを聞かせてもらった時に、先生が頂いとられる事とはちょこっと違う。私が頂いたのは、感じが違ったんですけれども、それこそドキッとしました、ね。天は青く地は黒く中紅の、というふうに金光教の青年歌ですかね、文句があります。天はどこまでも青に澄みきっておる。地は黒い。中紅いの。人間の信心の熱情の事を表現したものでしょうねぇ。中紅いのはわかるけども、天と地が反対に表現してある。天は黒なり地は黄なり、と。皆さんどう、感じられるでしょうか。
明日ここで青年大会が催されます。そのシナリオが出来てきておりましたのが、一番初めに合楽理念の解釈がしてございます、ね。合楽理念とは、というのです。もう見事にまとめて表現してございましたが、中に、ね、合楽理念でいう幽界、いうならば霊の世界。いうならあの世、それにあの世は暗黒なり、とあります、ね。だから、この世にある時にです。私共が信心を、真の信心を頂いて、心に光を頂いておかなければ、もう一寸先が闇の世界だ、という事。霊の世界というものは。
この世で信心の稽古をさせてもらい徳を受けて、その徳の光によって、あの世は、いうなら光明世界と化するのです。この世でも光明世界に住みたいが、あの世では尚更の事、五十年百年の事ではないのだ、と、ね。永劫あちらで暗黒の世界で、何やら彼やらわからんような、ま、仏教的に言うなら、それこそ地獄の底でうごめいておる難儀な魂の世界に入って行かねばならない。
この世で徳を受け力を受け光を頂いて、それを持って行く時に、その暗黒の世界も光明世界に化して行くと、いう説明がしてあります。あの世は暗黒、ね。そこでこの世で、いうならば信心の、いうなら光を頂く。今日皆さんに聞いて頂いた、そういう生かされて生きてあるもう一つ向うの根本のところから、我、生神、という事の自認が出来る。
それでその生神を育てる為には、いよいよもって土の信心が必要である、という事がわかるのである、ね。その柿の種を土に、いうなら埋めるところから、ね。土の暖かみ、ね、を受けて太陽の熱を受け水分を受け、そこから芽をきって、まさしく柿の種が生えてくるんです。
人間もそうです。そこがわかった時に、これはいよいよもって土の信心が大切である、という事になってまいりますと、そこから確かに生神の芽が出てくる。我ながら我心が拝めれる。金光教の信心の素晴らしいところは、私はここだ、と思うのです、ね。生神への精進、簡単に言いますけれども、それには生神の芽が、ここの中にあるんだ。
それが我情で我欲で、もうそれこそ、ね。干からびてしまったようになっておる。これで終わって行く、という事は残念。そこで初めて天の心、地の心。いうならば土の心をもってです。私共がそれを、いうなら道中だけが、自分の好いような我儘勝手な生き方ではなくて、ね。土から出でて土に還っていく、その道中とても土の信心、という事が如何に大切か、という事がわかります、ね。はっきりと神の芽が出てくる。
その神の芽は、ね。もう本当に我ながら我心が拝めれるような心の状態、ね。桜井先生が頂かれて、初めに気がついた時に、はっとして自分とそれを見て感じた、と言われる、天は黒なりである、ね。天国という事を、ま、あの世と言うていいでしょう。だから天は黒なり、地は黄なりという事が素晴らしい。
ここでは色でいろいろ、紫の色を頂いたら安心、というふうに頂きますように、ね。真赤なものを頂いたら、信心の情熱というふうに言われるように、黄色、黄いな色というのは、ま、その中間色である、ね。赤にも紫にも青にもいろいろ変化していく色である。それを教祖の神様は今中という表現をしておられます。
どんなにおかげを頂いたの、どんなに難儀が続いておるの、と言うても、ね。それは今中なんです。先の方も限りない、上、下とも限りがない。その真ん中にあるのが人間なんです、ね。この世に生まれた、という事は、さあこれから神になるか蛇になるか、という境なんだ。そこで私共が初めて合楽に御神縁を頂いて、そこの所謂ことわけ、その道理がわかる。
この世では、いうなら地獄でもない、極楽でもない、中に、例えばおるようなもんだから、じぶんの、いわゆる心一つで総てをつくっていく、という生き方。信心とは本心の玉を磨いていくものだ、改まっていくもんだ、という、いうなら生き方を身につけていくところに、その黄いな色は段々、いうならば安心の色という事にもなってくるでしょう。ね。
青の生々とした色を添えてまいります、ね。赤の熱情を加えていくと、ね。紫になっていくように、心に安心、安らぎの心が頂ける。いよいよ生神への精進、という事になってくる。皆さん、ここんところをね、も、この世では、もうそれこそ五十年か百年ですから、それに気づかせて頂いたんですから、わからせて頂いたんですから。ですから、そこんところを、に、いよいよ眼目、焦点を置いての信心をさせて頂いて、はじめて実感としてわかるのが、本当に自分がこういう迷うておる、難儀をしておる、と。
本当に神様に御心配ばかりかけて、神様にはもちっとましな喜びを喜びを頂いて、その喜びを神様に見てもらい聞いてもらいしなければ相済まん、という事になってくる、ね。我、いうならば神の子の自覚が出来て、初めて生かされて生きてありという事も実感としてわかるようになる。
そのことわけとしてです、ね。それこそ柿の種にも柿の芽が、もうすでにあるように、人間生まれると同時に、いうならば神の心、というものは、も、備わっておる。それをこの世は黄なり、である。この世は黄色の世界である。だからここに信心を頂いて、真の道を歩くもの、信心を頂かず信心をとうとうわからず、神様との御縁もわからずして、我情我欲に生きていく、という、ここに別れ道にあるのがこの世である。
そのこの世、この現世でです。私共がそれをわかり得た、というだけでもです、素晴らしい、ね。だからそれをいよいよもって私共が、ね。我、生神の自覚を目指して頂く、いわゆる生神様を目指して信心の稽古をさして頂くという事になるのです、ね。そこにはもう何ともかんとも言えない、ね、不思議な不思議な働きが起こってくる、ね。
それを合楽理念は、それこそ詳らかに説くのです。まず、いうならば天地との調和が生まれてくるんです、ね。それをここではリズムに乗った生き方、と言っとります。素晴らしいタイミングが日々の生活の中に生まれてくる。生神になるという事は非常に楽しい有難いもんだ、という事。この調子でいくなら、私も生神を目指す事が出ける、というように、ね。リズムに乗っての信心生活が出来るようになる。
昨日最後に久富繁雄さんが発表しとられましたが、今キャベツ、じゃない、何でしたかね、あ、レタスか、六反半から作ってあるそうです。レタスばっかり。それでこの頃からずうっと植えられましたが、二日間植え終わるとお湿りがある。また二反植えると、またお湿りがある、と言うて、もうこれはもうたびたび、いつもの事ですけれども、そういうお繰り合わせを頂き、植えたら、上にビニールかけなきゃならんが、もう無風状態で、大変仕事がしよい中に、神様の御守護の中に日々こんなおかげを受けておる、という喜びを発表されました。
もう天地と共にある、という事は、も、それこそ生かされて生きておる、という事実、実感がはって、それこそ親と子のかかわりあいが、そういう神の情の中に過ごしていく事が出来る、という。昨日、朝の御理解に、おじいさんとおばあさんの話をしましたね。大黒様を拝みよったら後で拍手の音がする、ね。そしたら息子が来てから後から御祈念をしよった。
お父さん明日から、ね、これを一枚づつ御造営費にお初穂をして下さい、というのは繁雄さんのところの話でした、ね。もう本当に、いうならば繁雄さんが親に孝行しょうという、その一念を燃やしていくところから、それこそ子供が、なら今の繁雄さん達の夫婦にとって、息子が信心になっていくという事が、もう何よりもの親孝行であろうと私は思います。
もちろん老夫婦でおかげ頂かにゃなあ、と言うて、それこそ身を削り心を削りしておかげを頂いておったけれども、信心がまあだ分からない息子に、それを言うてもと思うておったら、息子の方から、そういうまるっきり大黒様が打ち出して下さったかのようにして、おかげを頂いた、というお話が昨日ありましたよね。
またそういう有難うして勿体のうして、子供からは大事にされ神様からは大事にされ、ね。そして例えば、その六反半もの植えつけに対してはです。もう二日間植えたらお湿りがあり、二日間植えたら、またお湿りがあり、しかもそのま無風状態で、というようにです。もうどげん考えたってばばさん神様のおかげを頂いとる、と言わなおられんね、と老夫婦が、それも息子も加えて、そういう話をさせて頂きながら御用頂いた、という話をなさいました。楽しいでしょうが、ね。
そのレタスがまた市場に出される、ね。そこにはほんな前の日までは百円じゃったつが急に、百五十円になるといったような体験も積んでいっておられる。神様のおかげというものはもう、それこそ凄まじい。そういう凄まじいまでの働きを日々の生活の中に頂き活かしていく、という生活をです、ね。私共は頂きたい。そういう生活を本当の意味に於ての信心生活。合楽理念をもってするところの生活、ね。
百姓は合楽理念をもってする他はない。商売は合楽理念をもってする他はない。海外布教は合楽理念をもってする他はない、という、その実験実証を、いよいよ現わしていっての信心、ね。その心の光が、いよいよ広がりに広がっていく光輪の世界。この世に光輪の世界のおかげを頂かずして、あの世に光明世界があるはずありません。この世で心が真暗である。
この世で迷い苦しんでおって、あの世で極楽があるはずがありません、ね。こちらで頂いた、その信心の光を、そのままあの世に持って行ける。しかもこの世にも残しておける。それを御神徳という。その御神徳を頂いて、あの世は、天は黒なり、地は黄なり。その暗い世界にも、光明をもっていくから光明世界という事になるのであり、この世は黄なりである。
信心を頂くか頂かないか、勿論それも、真の信心を頂くか頂いかないか、ただ御利益、おかげ、という事だけを追い求める信心は、真の信心とは言えない。信心の根本のところをわからして頂いて、ね。そこに基づいて、いよいよ信心生活がなされていくようなおかげを頂きたい、と思うですね。どうぞ